第三話<魂(たましい)とは魄(はく)とは>
魂とは・・・儒家たちはこのように考えた。
人間は精神と肉体から成り立っているとし、精神を主催するものを「魂」、肉体を支配するものを「魄」とした。心身二現論である。
この魂・魄は人間が生きているときは共存して納まっているが、死ぬと分裂する。そして魂は天へ浮遊し、魄は地下へ行く。地下といっても深い所ではなくて、人間が関わることが出来る範囲のところへ行く。
だから魂を「魂気」ともいい、魄を「形魄」ともいう。
この魂は天を漂う雲をイメージしたものであり、魄は白骨をイメージしたものである。ちなみに「云」という文字は、気が上って行くことを表した文字である。
入道雲、鰯雲、黒い雲、夕焼け雲、雨雲など雲は千変万化する。
古来、中国人は雲とはなじみが深い。これら日々の生活の中において、天高く流される雲を見て中国人は魂をイメージしたのであろう。魂はまさに(浮遊)するのである。
そして「魄」とは。
魄の場合「白」に意味があり、これは「白骨」を意味する。
死ねば肉体は腐ってゆく。当然悪臭が漂う。そして分解が進み、最後には白骨となる。白骨とはもはや異臭はない。だから死体処理は白骨化することが窮極の目的となる。
この白骨化にもっとも効果的なのは野ざらしである。腐敗の進行が早いからである。事実、遠い昔は野ざらしであったようである。
しかし、野ざらしすると犬などが死体の一部をくわえてどこかへ運び去ってしまうおそれがあるし、遺族としては棄てさったような野ざらしは気持ちとして耐え難い。事実、孟子などはそういっている。
そこで死体の管理ということが必要となる。そして、その管理の方法として、土をかぶせて遺骨が散失してしまわないようにする。すなわち墓(盛土しないで遺体だけうめるだけの)あるいは盛土したいわゆる土饅頭の「墳」が造られるということとなる。
では、なぜ死体を焼いたり、どこかへ捨て去ってしまわないのかということになるが、それはできない。
なぜなら、この白骨、その抽象化されたものである魄がないと次の重要な儀式ができなくなってしまうからである。
その儀式とは<この世>に帰ってくる儀式である。
前述したように、死ねば魂・魄は分離し、それぞれ天上・地下へと行く。とすれば理論的には離れたものは再び結びつけることが出来る。そこで、分かれた魂・魄を結びつける。そうすることによって<この世>に再生が可能と儒家は考えたのである。
具体的には、もとの所へ魂を招き、魄を回復させること、すなわち招魂復魄の儀式をおこなうことである。
もちろん現世にいたときのような姿ではないが、再生する。これを招魂復魄再生、略して招魂再生という。
さて、その場合、死者の魂・魄はどこに帰ってくるのか!!
残念ですがつづくです。またね!
辰まる君でした‼