経典三千余巻を携え帰国した義天は、高麗天台宗を開き、諸宗との和合を成就しつつ仏教の発展に尽くしました。
霊通寺は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の古都・開城市郊外に位置する寺院であり、今から約1000年前、義天(1055~1101)により開山されました。
義天は仏教発展に尽くしただけでなく、貨幣を積極的に用いる利を解くなど経済発展にも寄与しましたが、1101年、47歳で入滅しました。
その多大なる功績に対し諡号として贈られたのが「大覚国師」の称号です。
義天は開城・五冠山の麓で荼毘に付された後、霊通寺の東北に埋葬されました。
義天亡き後も、優れた後継者を得た高麗天台宗は発展を続け、仏教界の中心となりました。
しかし1392年、高麗が滅び、李成桂による新王朝が成立すると廃仏崇儒政策がとられ、前王朝・高麗の国教であった仏教は弾圧されました。
これにより、天台宗は歴史の表舞台から姿を消すことになりました。
およそ500年続いた李王朝とその後35年間の植民地時代を経て、朝鮮半島は新たな時代を迎えました。
大韓民国(韓国)においては、上月円覚大祖師を中心に天台宗再興の気運が高まり、1966年に天台宗の重創(再興)が内外に宣言されました。
小白山救仁寺を総本山とする大韓仏教天台宗は、その後急速な発展を遂げ、宗徒200万人を超える大教団として韓国仏教界における中心的な存在の一つとなっています。
一方、南北分断により北朝鮮民主主義共和国側に位置することとなった義天ゆかりの霊通寺は、伽藍は消滅し、鬱蒼と茂る森の中に三基の石塔と幢竿支柱、大覚国師の墓所と碑を残すのみとなっていました。
古墳研究の第一人者、故・斎藤忠先生(東京大学教授、大正大学教授等を歴任)のグループが、大正大学常任理事(当時)西郊良光師引率の下、数次にわたり北朝鮮を訪れ、朝鮮社会科学院考古学研究所と共に霊通寺発掘調査に尽力しました。
日中韓三国の仏教関係者並びに朝鮮民主主義人民共和国の配慮と理解の下、霊通寺復元作業が進められ、2005年秋、霊通寺が復元されました。